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監督が映画の後に小説読んでくれって発言してるから買って読んだ

雪が家を出たのは(中学校まで往復5時間かかるからってのもあるかもしれないけど)花が寮生活を薦めたからで
雪は自分が家に残ることを提案していることから
母親思いの「にんげんのこども」に成長した

だから「もしドラ」作者の感想も一部は間違ってる事になる

でもモヤモヤする映画だ

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「もしドラ」作者による『おおかみこどもの雨と雪』評が今のところ一番鋭い

おおかみこどもの雨と雪 もしドラ 岩崎夏海


このエントリーはほぼネタバレで構成されています。

見終わって最初に思ったのは、「消化不良の映画だ」ということだ。とらえにくい。もやもやが残る。なぜもやもやが残るかというと、カタルシスがないからだ。映画を見終わった後、なんとも言えない胃のもたれが残る。小骨がいつまでものどの奥に引っかかっている――そんな映画である。

この映画は、普通に見ていると母親の「花」が主役に見える。と言うか、そうとしか見えない。だから、見ている間は花に感情移入する。花が嬉しければ喜び、花が悲しめば悲しみ、花がピンチに陥ればハラハラする。

ところが、そうやって見ていたら最後にどんでん返しが待っていた。この映画の主役は実は子供たちで、母親は脇役に過ぎず、しかも主役の子供たちを苦しめる悪役でもあったのだ。そうして最後は、子供たちに逆襲されて、こらしめられる役なのである。

確かに、タイトルは『おおかみこどもの雨と雪』と子供たちの名前になっているし、ナレーションも娘の「雪」が担当しているから、子供たちが主役であることは明に暗に示されていた。だけど、そんなことはすっかり意識の外にあった。だってなにしろ、この映画は最初から最後まで脇役の花が出ずっぱりなのである。映画の冒頭に描かれるのは、子供たちが主役だとしたらむしろそぐわない、花と父おおかみおとことの「恋愛」である。しかもそれが、けっこうたっぷり描かれている。それで、すっかり花の物語だと思わされた。

だけど、そうではなかった。花は、この映画の主人公である子供たちを苦しめる、脇役であり悪役だったのだ。

母親がどうやって子供たちを苦しめるかというと、それはダブルバインド(ダブルスタンダード)でである。花は、ダブルバインドの使い手なのだ。

「ダブルバインド」とは、例えば子供が悪さをした時に、「そんなことしちゃダメでしょ」と叱るのではなく、「そんなことしていいと思ってるの?」と質問したりすることだ。そういうふうに質問すると、子供が「思ってない」と答えれば、「だったらなんでするの!」と責めるし、「思ってる」と答えると、「いいわけないでしょ!」と責める。つまり、どっちに答えても責められるという構造を作り、子供たちを宙ぶらりんにさせるのだ。そういうダブルバインドの状況下に置かれると、子供は返答しようがなくなるので、心理的に母親の支配下に置かれてしまう。そうすると、さまざまな問題が起きるから、教育では一番やっちゃいけないことの一つとされている。子供を叱る時は、ダブルバインドは絶対にしないようにしましょうということになっている。

花は、それをやるのである。子供たちに「差別はいけない」と言っておきながら、同時に「あなたたちは差別される存在だから、正体を隠しておきなさい」と命ずるのだ。

それで、子供たちは苦しめられる。差別はいいのか悪いのか? 母は「いけない」と言うけど、だったらなぜ自分たちは正体を隠さなければならないのか? この「悪いことをしているわけではないのにこそこそしなければならない」という状況下に置かれて、子供たちは板挟みになって苦しめられるのである。

また、自分たちを苦しめているのが、他ならぬ最愛の母であるということにも、あるいは彼女が悪意からではなく善意によって自分たちを苦しめているということにも、子供たちは苦しめられる。母親が自分たちを苦しめている元凶だということは薄々分かっているけれども、それに面と向かって反抗したり、そこから逃れることができづらいからだ。だから、いつまで経っても苦しみの中で過ごすことになり、やがてストレスは際限なく高まってくる。


しかし、物語の最後、二人の子供はどちらもその苦しみから抜け出すことに成功する。最愛の母親ではあるけれども、その言いつけに背いたり、あるいはそこから逃れ、離れて暮らすことを決めるのだ。そうして、ダブルバインドの拘束から逃れることに成功するのである。

その意味で、子供たちは勇敢だったしまたとても立派だったのだが、しかしぼくがその構造に気づいたのは、映画を見終わってしばらく経ってからだった。映画を見終わって、帰りのバスの中であらためてこの物語を俯瞰で見た時に、初めてそのテーマが浮かび上がってきたのだ。見ている最中にはそれに気づかなかった。

なぜ気づかなかったかと言えば、この映画が最初から最後までほとんど母親の視点で描かれていたからだ。これが子供たちの視点で描かれていれば、母親のダブルバインドに苦しめられていることをハラハラドキドキしながら見守り、最後にそこから逃れて自由を勝ち得た時、「良かった良かった」とカタルシスを味わえたのに。

それで、なぜそうなっていないのかを考えたのだが、おそらくは、二兎を追ったからではないかと思う。つまり、悪役である母親も、主人公のように描こうとしたのである。その過ちと成長をも、メインテーマとして描こうとしたのだ。(抜粋)

aureliano


全文:http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20120723/1342988265

そういえばデジモンでも「善意が悪意に転じてしまう状況」を描いていたような…?
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監督が映画の後に小説読んでくれって発言してるから買って読んだ

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母親思いの「にんげんのこども」に成長した

だから「もしドラ」作者の感想も一部は間違ってる事になる

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